不況に飲み込まれた最初のキャリア
45歳の三月、私は23年勤務した大手のIT・通信企業を早期定年退職しました。
その時期はまさに、サブプライムローン問題に端を発した金融危機による米国経済ひん死の時代であり、米国の状況が世界金融危機として波及し、日本を含む世界中に危機的な不況が襲い掛かった頃です。
こんな時期にはよくあることですが、大企業は大規模なリストラを実施します。2000~2002年のITバブル崩壊不況時に続く二度目の早期定年プランが2007年に実施されたのです。しかも今度は対象年齢を45歳以上と大幅に下げてきました。私はそのプランに応募し最初のキャリアを終えることを決心したのです。
当時の私は、子会社に出向しており、人型ロボットの開発のプロジェクト・リーダーを務めておりましたが、不況の中で開発要素の強いプロジェクトが収束方向になるのはある意味仕方なしで、新なる開発は凍結ということになりました。抱えていた部下も、他のプロジェクトに移り、私は納入済みユーザへの対応要員として、ただ一人のプロジェクトに残る恰好で、社内の居場所とやりがいを失っていたのは事実でした。
子会社は、本体からの多くの出向者を抱えていましたが、出向者もろともの連結からの切り離しや買収の噂が絶えず、先行きが見えませんでした。実際に、私の退職後に2度買収を受け、全く異なる組織に放り出された者の殆どは辞めてしまったと聞いています。
居場所を失い、組織の先行きの不透明感を感じたが故の決断でしたが、どちらにせよ似た時期に職を変える必要に迫られることになったのですから、残るも辞めるも大差のない結果でした。退職時に、形式的に親会社に復帰し、大企業の退職金を割り増しでいただいた私は、むしろ幸運だったのかもしれません。
”運”や”日々の行動”が、私をその組織に置いたのでしょうが、その殆どの原因が”運”にあるとするならば、それは言わば”不況に飲み込まれてしまった”という状況でしょう。
小さな運送事業を展開
幸いにも、住宅ローンは終わっていたものの、当時17歳と12歳が二人の計3人の子供の教育費が嵩むのはこれからという状況でした。激しい不況の中、45歳の男が新たな雇用を求めることの困難さを考えると、とにかく起業するしかないと考えていました。そこで興したのが軽トラ運送業、いわゆる”赤帽”です。
赤帽も難しい仕事です。95%はサラリーマン時代を顧みて後悔することになるでしょう。しかし、大きなクライアントを複数かかえ、自らは殆ど走ることなくとも、他の赤帽に仕事を回した手数料でサラリーマンには有り得ない材を築く者がいるのも事実なのです。この成功者は、いわゆる”元締め”と言えるでしょう。
元締めになるには、直接仕事を依頼してくれるクライアントを抱えなくてはなりません。
私の場合には、ホームページを作ることができましたので、それを経由した個人の引っ越しなどや小さな企業からの仕事が舞い込んで来るようになりました。
年齢的には、私が若者扱いされるような業界ですので、ITメディアを使った営業は私の強みでした。
更に、赤帽では、元締めとの師弟関係によるクライアントの譲渡という慣行が見られるので、もらい仕事も誠実におこないました。
このように、成功するための戦略は持っていたつもりでしたし、良い感触も持ちつつあったのですが、そこに落とし穴があったのです。
運送業ではありがちですが、疲労がたまってしまったのです。ある仕事の帰り道、運転中に気を失い、脊髄に怪我を負ってしまったのです。気を失う直前に急ブレーキを踏んだのか、奇跡的にどこにも衝突せず停止していたのですが、それがまた怪我の原因になったようです。
私は、どんなに疲労しても精神力を強く持って乗り切ろうとする性格です。そしてそこに直面したときに、それは恐らく変えられないでしょう。どんなに疲れても、居眠り運転だけはしない自信がありました。しかし、疲労の極みが失神であることを、そのとき初めて理解させられたのです。
命があったのが奇跡的と言うしかありません。現場が大きな国道の直線路だったことが私を助けてくれました。今思うと、他の時には谷が見えるようなワインディングロードで意識を失いかけたこともありました。その時同じことが起きていたならば、私は間違いなくこの世にいなかったでしょう。このようなことをしていては、自分の命だけではなく、ほかの命も巻き添えにしかねません。つまり、性格的に合わない事業だったという判断です。
これで運送業は諦めました。
大学非常勤講師に就任、しかし・・・
その後、胸の下まであるようなコルセットを巻き、リハビリの毎日が続きました。近所の公園を散歩するのにも激痛が走り、歯を食いしばっていましたが、なんとか人並みに生活ができるように回復してきました。
そんな私の様子を知ってか、最初のキャリアを過ごした会社の先輩から、大学非常勤講師の話をいただきました。その大学は、企業経験をベースにした講義展開を望んでおり、大企業OBの品質管理の講師を求めていたのです。私は当時、ISOの品質管理マネジメントシステムの審査員資格を持っていましたので、先輩も適任と考えたのでしょう。
起こした事業を諦めざるを得なくなったところでしたので、とてもありがたい話でした。そしてこの仕事は現在もおこなっています。
非常勤と言えども、大学講師は、非常に時給が高い仕事の一つです。具体的な話しをすることはできませんが、一般的なバイトの8~10倍前後と言えば、感覚的にはおわかりいただけるかもしれません。
が、
仕事を紹介していただいた先輩がこのページを読むのが怖いのですが、大学非常勤講師だけでは食べていけないのです。
4月~9月は週に2時間、10月~3月は4時間と講義する時間は非常に少ないのです。しかも、大学というのは長い休みがありますし、非常勤講師は事実上アルバイトですので、休み中の収入はありません。
当時教育中の子供が三人。妻も正社員で頑張ってくれていますが、とてもじゃありませんが、どうにもなりません。
という訳で、Wワークになるのです。
私こと、Wワーク非常勤講師のその後の履歴を大まかに表現すると、
求職⇒仕事につく⇒再び求職⇒仕事につく⇒再々求職(現時点)
となります。同時に大学非常勤講師もおこなっています。
仕事を探すのも困難ですが、せっかくついた仕事を三度も辞めている過去もあります。仕事探しの経緯、仕事を辞めなければならなくなる教訓を回顧するとともに、今後の就活日記を記していきたいとおもっています。
それがこのブログのテーマです。
その後の歩み
2017年、非常勤講師から客員教授となりました。
特に待遇は変わらず、バイト先生にすぎないんですがね。